2-おっぱい星人と逃避行(怒)-01

 最初の感覚は、しゃびしゃびのジャガイモスープ。あのトロトロ感は私も好きだけど、だからって頭からダイブしようとは思わない。
 その次は、ちょっと硬めの泥パック。近所のおねえが愛用してる。野外でハードな演習をしたあとは、毛穴の汚れが気になるもの。彼は市販のパックなんて使わない。趣味が昂じて独自の商品まで開発し、サイドビジネスでコスメの通販なんかもやっている。私にも作り方教えてよー、ってお願いするんだけど「イヴリナちゃんには、まだ必要ないわ」って毎度却下されてしまう。きっとあれだ。企業機密ってやつだな。
 全身泥パックの感触は、時が経つにつれて干からびていく。そろそろパックを流したいな、どこで洗えばいいんだろう……
 ぼんやりしていると、気のよさそうなおじさんの声がする。
 生活雑貨とか、ライフハック魔道具の売り場担当してる感じの、接客のプロの声だ。
 ねえ店員さん。全身泥パックはどこで洗い流せばいいの?
 気軽に聞きたいのはやまやまだけど、声は引っ込み思案で、口からなかなか出ようとしない。
 ぼうっと頭の中の靄が濃くなる。ふわっとお湯の匂いがしてくる。
 水は無臭のはずだけど、このときばかりはお湯が香っているように感じた。
 ぬるま湯で体中が溶けてしまいそう。私はこの感触を渇望していた。
 ぼんやりとしているうちにまた寝てしまって、気がついたらふかふかのお布団にくるまっていた。懐かしい、おかあさんの匂いだ。自分じゃマメに布団も干さないからな。懐かしさを通り越して、鼻の奥がツンとして――間近で物音がしてびくっとして、うっすらと目をあける。
 橙色の壁紙が見える。白い額縁の白い絵が掛けられている。拙いタッチの男の子の絵だ。左右ちぐはぐな視線で、舌をぺろんと出している。へたくそなんだけど、まじまじと見ていると大層なアートに見えてくる。画面の右下には、やけに彩度の高い赤の絵の具で達者なサインが描かれている。絵のタッチとのギャップは計算されたものなのか。ふいに女性の声がした。
「あの絵はね、うちの旦那がもらったものなの」
 ぎょっとして振り向いた拍子にぐきっと首をやりそうになって、視界が涙でにじむ。ベッドわきにVネックのセーターを着た細身の女の人が居た。品のよさそうな亜麻色の髪のおばさん――と言いたいところだけど、そこまで歳ではないかもしれない。
「大丈夫? ケガはないようだけど、もしかしたら頭を打ってるかもしれないから、一度病院で診てもらいなさい」
「あぅ――」
「ごめんなさいね。今はゆっくりと休むといいわ」
 おばさんに肩を押され、問答無用で布団をかけられた。
「うちの旦那はね、なんでもかんでも拾ってくるのよ。画家さんだったり、魔法使いだったり、かわいいメイドさんだったり……」
 みゃぁ~~、と動物の甘ったれた鳴き声がベッドの下から聞こえた。かと思ったら、トスッ、と太ももの上に、重量級の毛玉が乗った。チャトラの猫だ。おばさんとおそろいの毛色だ。涼しい顔をして、布団にみりっと爪を立てる。
「みうちゃん、ダメでしょ」
 おばさんが鋭く叱って、猫を抱き上げる。
「この子も旦那が拾ってきたわ」
 おばさんがまんざらでもなさそうに言った。猫の背中をわしわしと撫でる。猫はおばさんの腕に気だるげにのっかり、そしらぬ顔でまどろんでいる。

 塩味の効いたたまねぎのスープをふるまわれた。
 外からは、グケーッ、グケーッ、と聞きなれない鳥の鳴き声が盛んに聞こえてくる。
 おばさん曰く、私は川辺で気を失っていたところをこの家の主人に拾われたらしい。意識が曖昧だったときにぼんやりと聞いたプロ接客声が、それだろう。
「拾ってきたのが、珍しくまともな子でよかったわぁ」
 おばさんが、私の飲みっぷりをのほほんと眺めて笑う。今までどんだけやばい連中を拾ってきていたのかと、ちょっぴり気にはなったけど、詮索するのはやめておいた。
 スープをさらっと平らげたのを見届けて、おばさんはふかしイモやら根菜の煮物やらふかふかのパンやらをふるまってくれた。
 そうこうしているうちに、おじさんが帰ってきた。ライフハック系ではなく、むしろクレープとかを激しく売り捌いていそうなリンゴ腹の人だ。そのくせ町の工具屋さんみたいな繋ぎを着ている。白髪頭はふさふさで、悩みとは無縁そうな無邪気な顔をしている。
「おおお、あのメイドさんは目を覚ましたのか!」
 おじさんは、素晴らしいプロ接客声で喜びをあらわにした。
「そうよ。よかったわ。ご飯もしっかり食べられて、ひとまず安心したわ」
「そうかそうか。良いことだ! そうだお前。地下室にトパーズさんから頂いたワインがあっただろう。あれを開けよう」
「あなた! そうやってまたお酒を飲もうとして!」
「お客さんにお酒をふるまわないと」
「わかりました。お客さんにはふるまいましょう。あなたは指をくわえて見てらっしゃい」
「そんなぁ!」
 恰幅の良い旦那さんが、小さな男の子みたいな甘ったれた声を出した。
「そんなぁ! じゃありません! 第一、あなたはなんでもかんでも拾ってき過ぎなの」
「な、なんか、すいません」
 どうも自分が原因で夫婦げんかが勃発している気配。口をついて謝罪が出てくる。
「あなたはいいのよ」
 と、おばさんは猫なで声になった。
 それも私に笑顔を向けた一瞬だけで、すぐにむすっと旦那に向き直る。
「あなた、あの男はどうするのよ」
 どうやらこの夫婦は、わたしの他にも居候を抱えているらしい。
「いいじゃないか。あいつはあいつで見どころがある」
 おじさんが、お水の入ったコップをお酒の入ったグラスみたいにもったいぶってくゆらせる。
「そう言って、居酒屋からわけのわからない連中を連れてくるわね」
「袖振り合うも他生の縁、と、前に一緒に呑んだ流しの僧侶が言っていた」
「あらそう。人前で堂々とお酒を飲む聖職者も珍しいわね」
「細かいことにいちいち目くじら立てたら負けだ」
「目くじら立てるわよ!」おばさんがヒステリックに吠えた。「のんきなことを言ってないで、あの男をどうにかしなさいよ」
「時期がくれば、あいつもふらりとどこかへ行くだろう」
「一度に二人も面倒みられないわ!」
「ほ、ほんとにごめんなさい」
 やっぱり、いてもたってもいられなくなって謝ると、
「あなたのせいじゃないのよ」
 と、おばさんはまた猫なで声になった。

 拍子抜けするぐらい平和な夜がやってきた。
 ファントムも奇跡的に無事だった。私は発見されるまでしっかりと抱えていたらしい。ちゃんと掃除して、本当に弾を撃てるか確かめる必要があるけれど、武骨で気の利かない素朴な戦士みたいなファントムのことだ。見た目通り、中も無事だと期待したい。
 おじさんにファントムを返してもらって、ふかふかのお布団に戻って、泣きたいくらいにほっとした。ひとまずの危険は去ったのだ。
 人心地ついて、大切なことを思い出す。ルナのことだ。
 恐らくコンサルタントの監視下にある。それなのに私は王子を襲って逃げだしてきた。このままじゃ、ルナもただじゃすまない。コンサルタントよりも早くを回収して、どこかに逃げないと。
(……国外逃亡、しかないな)
 安全無難に生きようとして、行きつく先は結局そこらしい。
 自分の判断のなにがまずかったんだろう。一貫して妹の幸せを思って行動してきたはずなのに、どこでボタンを掛け違えてしまったのか。
 試験初日を終えた夜の、真綿で首を絞めるような絶望感が再びのしかかってくる。
 行く手に希望が見いだせない。一寸先は漠々とした闇がひろがっている。私たちは生き延びることができるだろうか。
 外国のスラムに流れ着き、ごみでも拾って生きていくのか。
 途方に暮れたくなることは他にもあって、例えばさしあたり、どうやって家までたどりつくのかが問題だった。お金は持っていない。歩いて帰るには距離が離れすぎている。ファントムも、一度家できちんとメンテナンスしたい。
 もっとも、必要は発明の母だという。ぐるぐると悩んでいたら、ふいに画期的にして超法規的にして選択しうる唯一の方法に行き当たった。
(恩を仇で返すようだけど、あの夫婦から金を巻き上げるしかないわね)

 実際に撃てなくても、素人相手ならファントムの姿だけで威嚇にはなる。メンテナンスした風を装うため、外側の汚れをぬぐった。そして朝一、寝起きを襲って、混乱のうちに金を巻き上げる――
 なんていう決意もむなしく、私は普通に寝過ごしてしていた。
 朝になり、おばさんにやさしく起こさた。当初の計画は産声を上げることなく闇に葬り去られた。香ばしいパンの匂いと、ほんのり甘いミルクのせいで、戦意も削がれる一方だ。
 おじさんも、おばさんも、やたらめったらパンやらミルクやらサラダやらを私に食べさせようとする。もう、この人たちを襲える気がしない。となれば外に出て、適当な野郎に銃を突き付けて小銭を巻き上げるか。
 パンをおいしくはむはむしながら新しい恐喝の算段していたところに、ちりりんと可愛らしくドアベルが鳴った。
「こんな朝っぱらにいったい誰だろうね」
 と、おじさんがのんきにおばさんに聞く。
「私に出て見てこいというの?」
 と、おばさんが不満げに返した。
「いや、そういう意味じゃないよ」
 おじさんは、おばさんの剣幕に圧されてしどろもどろだ。
「どうせ、あの男が戻ってきたんでしょう」
「そうかもしれない。せっかくだから民宿でもやるか」
「お客のお世話は全部あなたがやるのよ!」
「……あ、あの、すいません」
 またも申し訳ない気分になって謝る。
「いいのよ、あなたは良い子だから」
 なんて輝かんばかりの笑顔を向けられると、昨晩にタイムスリップして邪な算段をしていた自分を爆発炎上させたい衝動にかられる。
「どれどれ、鍵をあけてやるか」
 おじさんがのっそりと立ち上がりかけて首をかしげる。
「おかしいな。さっき郵便受けを見に行ったから、表は開いているはずなんだけど」
「いいから見てらっしゃい」
 奥さんに急き立てられて、おじさんはよたよたと玄関に向かって歩いていく。
 ドアをあけて、とりとめもない挨拶。やけに愛想のよいお兄さんの声が聞こえてくる。
 奥さんも黙って食事を続けると見せかけて、しっかり聞き耳を立てている。
 やがておじさんが紙切れをもって戻ってきた。
 お兄さんは一緒にはこなかった。彼らの居候ではなかったようだ。
「やいやい。号外を押し付けられたよ。スハイオルト殿下が襲撃されて、犯人は逃走中らしい。まだ捕まってないから気をつけろ、だってさ」
 と、おじさんが嬉しそうに言った。
 喉にむぐっと食べ物が詰まりかける。
 確かに、夜の川に落ちて、ひどい打ち身どころかケガらしいケガもせず、溺れもせずに、親切な人に助けられて、我ながらめちゃくちゃ運が良いなー、とは思ってた。
 けどね、幸運が続かないもの。続いたとしても、そうね。三回までかな。
 おじさんは、にこにこ顔で号外を読む。
「なになに? ええと殿下を襲ったのはメイドさんらしいな。王宮内で逃走劇を繰り広げ、お城のそばのルヌ川に飛び込んで行方不明――発見者はお近くの駐在所までご連絡ください。最大三〇〇〇万ゴールド報奨金を差し上げます」
 そこまで読み上げて、おじさんは、はっと顔を上げた。
 思いっきり目があった。目を反らす間もなく、おばさんもフクロウみたいに、ぎゅるんと顔を向けた。
 そういやこの子、メイドの恰好してたし、川から拾ってきたよな、とでも言いたげに。