1-33
- 2018.12.11
- 三年後、世界は終わる
「……『いわっころがし』ちゃん」
剣が歯をむいてうなった。再び平穏を取り戻した触手は、しゅるしゅると上の方に巻き取られていく。俺はぼんやりと村人の行動を反芻していた。
ひょっとしてあいつ、俺を助けようとしてたのか?
『そうよ』
と、剣がキレ気味に言った。
『「いわっころがし」ちゃんはいつだってやさしい子なの。やさしいけどちょっとおバカなところがあるから「こいしあらい」が助けてあげないといけないの』
そうだよな、と俺も思った。村人はだいぶ馬鹿なうえに臆病だから突拍子もないことをするけれど、たぶん悪いやつじゃない。やさしいかどうかはよくわからないけど、助けてやらないといけないのは間違いない。だって俺が森からおびき出さなければ、あいつは今も森のなかで自由気ままに暮らしていたはずだ。
そうよ、助けなきゃ、と剣が言った。
助けよう、と俺も思った。
早く起きなさい! このおバカ!
それにはまず、ここから這い出ないといけない。
腕を上げてみる。すると、拍子抜けするくらい簡単に抜けた。だが卵嚢は獲物を逃すまいとして、吸いつくように身体全体を締め上げてくる。気持ち悪い卵の分際で、立派で賢い『こいしあらい』を食べようなんて許せない。そうだ、俺の邪魔をするやつは許さない。わたしの爪で八つ裂きにしてやる。
人間は腕を振り上げた。『こいしあらい』は爪を出した。それは愚かな人間たちと『こいしあらい』の血で汚れた呪いの剣だ。憎しみで鈍った思考のように、どうしようもないなまくらだ。棍棒じみた鈍さでもって卵の塊を穿った。叩き潰されて卵液が飛び散る。
俺は剣を杖代わりに卵嚢から這い出た。地面が小刻みに揺れている。卵嚢が痛みのあまりぷるぷると震えていて、発狂寸前だ。
風の揺らぎが首筋をざらっとなで上げた。ぞっとして飛びすさると、頭上から切っ先を怒らせた触手の雨が降ってくる。空振った触手は卵嚢に突っ込むところをギリギリのところで避けて、今度は下から俺の顎を突き上げる――一撃目は爪で防いで、いったん退避。だけど触手はとっても多い。人間はそれをいちいち爪で防ごうとする。たぶんそれしか方法を知らないおバカなんだと思う。けれど『こいしあらい』は頭がいいから、きもちわるい触手をもっと簡単に退治する方法を知ってるの。
次々に触手が飛来する。それは一撃というよりは数の圧力で、猛撃を受け止めているうちに卵嚢からはたき落とされる。
剣は、ぱっと身をひるがえした。そして、受け身を取るかわりに爪の根元に力をためはじめる。
俺にはそれがなんなのかわからなかった。
けれど、このまま剣の好きにさせてはまずいと直感した。
剣先を卵嚢に向けて、なにかが放たれる直前。俺は無理矢理身体をよじった。剣が発動しようとしたやばいものを、せめて空に打ち上げようとしたのが、予想に反して、謎の力は未発のままここではないどこかに消えていった。
「辺りが火の海になる」かわりに、俺は地面にしたたかに叩きつけられた。
剣が不機嫌そうにうなって身体を起こした。剣を持つ左手が、再び熱を帯びる。
「それはダメだ!」
思うだけでは足らなくて、実際に声が出てしまう。身体が震えだす。剣が怒りに打ち震えている。
『なんで邪魔するの!』
「焼いたら呑み込まれてるやつらが死ぬだろ」
『「いわっころがし」ちゃんは焼かれても平気だもん!』
「埋もれてるのはあいつだけじゃないんだ」
『べつにいいじゃない。あのユイリとかいう人間はきっと、おまえが死んでもかまわないって思ってるよ!』
「そうだけど!」
剣が言うことは正しいけれど、それでも焼き殺すことはないと思った。ユイリは俺のことをリタを救う道具だとしか思わなかったとしても、殺してやりたいほど憎らしいとは思えない。
「そうだけど、ユイリは俺のことを認めてくれたんだ」
『は、なにいってんの?』
「偽物じゃないって言ってくれたんだ。俺をおだてて利用するのが目的だったとしても」
卵嚢が膨張したように見えた。どくどくと血のように卵液を流し、ひときわ仰々しく脈打っている。爆発のエネルギーを持て余して決壊寸前なのか、ちぐはぐに収縮してギラっと光って、また波が引く。
「うれしかったんだ」
『おまえ、ほんとうにおバカだね?』
剣が心の底から呆れたように言った。
『そんなお人よしなこと言ってると、おまえはそのうち死んでしまうよ』
「お人よしか」
俺は剣を握りしめる。
「そんな風に言われたのは初めてだよ」
言い終わるや否や、木が爆発した。
乾いた樹皮が粉々になって舞い飛ぶ。粉じんにしては大きすぎる塊が、ぴしぴしと肌に突き刺さる。剣に身体を半分のっとられているせいか、俺は無防備のままそれをくらった。やっとの思いで顔を庇ったかと思えば、そのまま前も見ずに剣が走り出す。もちろん触手が襲ってくる。剣はそれを避けようとするけれど、俺の意識が追いつかない。右足を左に踏みだそうとするのと同時に左足を右に踏みだそうとして、足が絡まって倒れる。
背中に触手の強打を喰らって、目の前に赤い火花が散った。不意に右手が熱くなったかと思ったら、剣から放たれた透明な炎が触手の先端を焼却した。
このままじゃいけない。俺たちはまた、支離滅裂な動きをしている。
後には揺らぐ熱風となにものともつかない消し炭が残される。先端を焼きちぎられた触手は縮れてぴくんと跳ね上がって、二度と地上へは戻ってこなかった。
『ちっちゃい火なら、おまえもいいよって思うでしょ?』
と、剣が得意げに言った。俺はげんなりして返事をする気にもなれない。
無視して崩れかけの卵嚢を這い上る。村人の居場所は剣が知っている。だから俺も迷わずそこまでたどり着き、卵嚢に腕を突っ込んだ。卵ではないものに触れる。村人だろうか? 俺は半信半疑だったが、剣は迷わずそれを引き抜いた。
「うわぁああああ! ぎゃぁああああ! いやぁあああああ!」
抜けたとたんに村人が絶叫して、それからわれに返って急にだまった。
俺をまじまじと見て、なにか言う前に卵嚢がひときわ大きく脈打ちはじめる。
ドスンッ、ドスンッ、と下から突き上げる振動が来て、卵嚢が大きくのたうってなにかを放出した。
触手はより太くグロテスクに吸盤を帯び、こんもりとした樹幹の葉はあっという間に干からびてぼこぼことした灰色の表皮をさらけ出す。それは岩石のようにひび割れて、けれど岩よりも柔らかで、まばらに剛毛を生やしていた。太い木の根元が盛り上がり、いままでの触手なんかとはくらべものにならない大きな触手が地上に姿を現す。その根元にはルビー色に光るものがある。よく見れば、反対側にも同じものがついている。それは横に切れ長の瞳孔を持っていて、静かに俺たちを見据えている。
「なんだこれは?」
タコのように見える。俺があっけに取られていると、剣がぼそっとつぶやいた。
『「おかあさん」なのね』
剣はいささか動揺しているようだった。なるほど、卵が危険にさらされているから、ようやく「母親」のおでましってことか。
「どうした、『おかあさん』だと倒せないのか?」
『そ、そうじゃないよ! 「こいしあらい」のほうが強いし偉いんだから!』
と、剣が力む。俺はちょっと嫌な予感がした。なにか押してはいけないスイッチを押してしまったみたいだ。
灰色の巨大タコみたいなモンスターは、卵を抱えてするすると後退しはじめた。どうやら、おちおち卵を育てていられないこの島を放棄して、どこかへ去ろうとしているらしい。
だから放っておけばいいのに、剣はそれを追いかけようとする。せっかく助け出した「村人」には目もくれようとしない。
剣はやけになって、
『燃えろ! 全部燃えちゃえ!』
と叫んだ。
すると森にぼふっと火の柱が立った。魚でもいたんだろう、ぎゃああああっと悲鳴が聞こえて、バタバタと走り回る音がする。タコは粛々と後退していく。
『待ちなさい! やっつけるんだから!』
「ちょっと、待てって」
剣は前に進もうとするけれど、俺が踏みとどまろうとするから、かかとを使ったムーンウォークみたいなおかしな歩き方になった。でもそれじゃあまともに歩けないので、なんてことはない下草にけつまずいて顔面からずるっとずっこけた。
「……くっそ。いてぇよ――」
剣がわなわなと地面をつかもうとする。そこにまた魔力の高まりを感じる。こいつは敵も味方もお構いなしに、すべて焼き払おうとしている。 どうやって妨害していいのかわからなくて、俺はとにかくじたばたした。すると集まってきた魔力が霧散する。剣が頭に響く金切り声で言った。
『じっとしてて! 気が散るじゃない!』
「気を散らせると魔術が発動しない。なるほどね、そういえばさっきもそうだった」
『おまえはほんとに嫌なやつだね!』
「ほんとにな」
『いつかひどい目に遭うんだから!』
「もうひどい目に遭ってるよ」
すると剣がムキーっと怒って、それからうんともすんとも応えなくなった。俺はすっくと立ち上がった。剣がそうさせたのだ。
「おい、やめろって」
剣は答えない。
放っておけばいいのに、タコを追いかける。タコも気づいているようだ。俺の追跡を嫌って進路を変える。森の木々が干からびた枯草みたいにぽきぽきとへし折られていく。
「待てって! もういいだろ!」
『許せないんだから!』
「『いわっころがし』ちゃんは無事なんだから許してやれよ」
『「こいしあらい」はおかあさんになれなくて、あいつはあんなに醜いやつなのに「おかあさん」になるなんて許せないんだから!』
俺の意志に反して、今度こそ予備動作が終わったことを悟った。
剣は刃を掲げ、タコに向かってまっしぐらに突っ込んでいく。
その視界の真正面、タコのほど近くに、アンジェリカの姿が見えた。混乱が脳天を突き抜けた。
「! どうしてあいつがそんなところにいるんだ!?」
けれど剣は意に介さない。アンジェリカは、人ひとり分はありそうな巨大なゼリーを抱えている。卵嚢に飲み込まれたはずのユイリも、その隣にぼんやりと立っている。
さすがのアンジェリカも、ぎょっと俺のほうを見て微動だにしない。
俺は叫んだ。
「はやく逃げろ!」
アンジェリカはそれでわれに返ってゼリー状のなにかを担いだ。
「いいからはやく! そこをどいて!」
俺が言い終わらないうちに、手のひらにためられた魔力が解き放たれる。
剣を伝ってまっすぐに放射され、タコに吸われていく。タコは前脚で必死に卵を庇い、せめてもの威嚇に残った触手を高々と上げた。
光がぶち当たる。けれどその一瞬前にタコの輪郭が揺らいで消えた。光は鈍色の空を突き刺し、大きな亀裂が入った。